中野区議会議員 ひやま隆(檜山隆) 衆議院議員ながつま昭元公設秘書

トピックス

戦争体験者の声一覧

2017年8月15日(火) 終戦の日にあたり

掲載日:2017.08.15

 本日、72回目の終戦の日を迎えました。先の戦争で尊い命を犠牲にされた全ての方々に謹んで哀悼の誠を捧げます。今日の我が国の平和と発展は、かつての尊い犠牲と、戦争を経験した先人の弛まざる努力の上に成り立っていることを私達は決して忘れてはなりません。戦争体験者の高齢化に伴い、日本から戦争の記憶が急速に失われつつありますが、平和の尊さ、戦争の悲惨さ、そうした過去の教訓を次世代に引き継ぐことは今の時代を生きる私たちの大きな責任であります。終戦の日にあたり、世界平和の実現と、わが国の平和のため、引き続き全力を尽くしてまいることを、ここに固く誓います。

ひやま隆(2017.08.15)|写真日記, 戦争体験者の声

2016年2月5日(金) 「平和の語り部」パネル展

掲載日:2016.02.05

 ひやま隆です。現在、区役所1階区民ホールにて「平和の語り部」パネル展が開催されております。中野区は今年度、終戦70年を機に、全区立中学校に「平和の語り部」を派遣しました。今回のパネル展では「語り部」が伝えたそれぞれの戦争体験と、貴重な証言を受け止めた中学生の感想文をご覧になれます。平和について考えるきっかけに、ぜひお立ち寄りください。開催期間は、2月3日(水曜日)~15日(月曜日)午前8時30分~午後5時(最終日は午後4時まで)になります。また、私自身が集めた戦争体験の声はコチラからご覧下さい。http://hiyama.tv/voice.html

ひやま隆(2016.02.05)|写真日記, 戦争体験者の声

2015年10月9日(金) 先の戦争に関するお手紙を頂く

掲載日:2015.10.09

 ひやま隆です。中野区江原町にお住まいの方から、先の戦争に関するお手紙を頂戴いたしました。貴重なご体験をお送り頂き、本当にありがとうございます。一部分だけではありますが、ご紹介させて頂きたいと思います。
 「八月十五日正午。家には父母と私だけだった」「天皇陛下のお声を聞くということで、膚を見せてはいけないと、仕立て上がりのゆかたを着せられ、両手をむすんで膝の上に揃え、ラジオに向かって正座していた。十二時になった。雑音で、放送内容を確かめるすべもなかった。それでも何か感じるものがあったのだろう。放送が終わると私は飛び出した。寺迄走った。兵隊さんの姿を求めて本堂に行った。」「私の八月十五日は、寺の本堂の廊下に、向き合って頭をたれている兵隊さん達。手をつけられていない昼食。寺の本堂の空間をただよう静寂。この光景の隅に、新しいゆかたを着て立ち尽くす女の子。これが、その日の全てである。」

ひやま隆(2015.10.09)|写真日記, 戦争体験者の声

2015年9月21日(月) 先の戦争に関するFAXを頂く

掲載日:2015.09.21

 ひやま隆です。中野区白鷺在住の方から、先の戦争に関するFAXを頂戴いたしました。私がお配りしているチラシの中の「先の戦争の話を聞かせて下さい」という記事を見てお書き下さいました。一部分だけではありますが、ご紹介させて頂きたいと思います。
 「(疎開先では)地元の学校の高等部に通いましたが勉強できたのは3ヶ月位の間で3日間位です。みんなが入る防空ごう(壕)を作るため、山から材木を運んでいたのです。今思うとよくあんなことをやったなァと思います。学生全員が入れるようなごう(壕)を作るため大変な仕事でした。親せきのおばさんにはじゃま者扱いされ「線路を伝って行けばいつか東京へ帰れるだろうからそうします」と父に手紙を書いたら、すぐに父が迎えにきてくれました。終戦の1ヶ月前でした。その年の終る頃やっと中学校に通えるようになりました。うれしかったです。証明書がなかったので大変でした。うれしくてモーレツに勉強しました。あれから70年必死に生きぬいてきました。今、総理が「集団的自衛権」などと妙な事をいっていますが又あの頃と同じ事になりかねません。」
 貴重なご体験をお送り頂き、ありがとうございました。ひやま隆は、今の時代を生きる者の責任として、必ず次世代につなげてまいります。

ひやま隆(2015.09.21)|写真日記, 戦争体験者の声

2015年8月8日(土) 戦争体験を聴く会に参加

掲載日:2015.08.08

 ひやま隆です。本日は、長妻昭さんが主催する「戦争体験を聴く会」に司会者として参加しました。6名の戦争体験者の方に講師としてお越し頂き、長妻代議士が進行役として、皆さまからそれぞれの戦争体験を語って頂きました。奇しくも、8月8日はソ連が日本に宣戦布告し満州に侵攻を始めた日でもありますが、当時、関東軍として満州の国境地帯を守備し、戦後は極寒の地シベリアに送られ4年間の抑留生活をした方の凄惨な体験などもお話し下さいました。
 今年は、戦後70年の節目の年ですが、戦争が経験から歴史にかわっていこうとしている今だからこそ、実際に、先の戦争を体験された方の生の声を聴くことには大きな意義があると考えます。私自身も、戦争の話を聞かせて頂く取り組みをライフワークとして取り組んでおりますが、今の時代を生きる者の責任として次世代にしっかりと繋げていきたいと考えます。これまでにご協力頂いた戦争体験談はコチラからご覧下さい。http://hiyama.tv/voice.html

ひやま隆(2015.08.08)|写真日記, 戦争体験者の声

2015年7月13日(月) 先の戦争の話をうかがう

掲載日:2015.07.13

 ひやま隆です。本日は、現在、中野区にお住まいで戦争体験者のMさん(仮称)に、先の戦争に関するお話を伺いました。Mさんは、昭和3年生まれの87歳。旧制高等女学校在学中に、日本は対米戦争に突入します。戦時中、Mさんは勤労奉仕団の一員として東京第2陸軍造兵廠板橋製造所に勤務していました。四国地方にある軍事施設からの極秘文書の写しを書くことが主なMさんの任務でした。
 昭和20年4月13日、330機のB29が飛来し、神田区、豊島区・渋谷区・向島区・深川区、淀橋区、小石川区、四谷区、麹町区、滝野川区、赤坂区、牛込区、荒川区、板橋区、中野区、王子区(現在の北区北部)、足立区、本郷区、下谷区、葛飾区、日本橋区、杉並区、江戸川区、城東区、浅草区を中心に東京は大規模な空襲に遭います。死者2459人、焼失17万1370戸。城北大空襲とも呼ばれるこの空襲により、Mさんも自宅を焼失しました。そして、同年8月15日、勤労奉仕で勤務していた陸軍造兵廠の庭で玉音放送を聞き、終戦を迎えました。
 戦後70年を経た今、Mさんは当時を次のように振り返ります。(Mさんのメモを原文のまま引用)
 「満州事変・日中戦争・㐧二次世界大戦と朦朧と生きた歳月でした。」「戦後70年に成りますが人間として此の頃の世相に戦前時代の不安定を感じてます。」「婚約者は野戦病院で飲水が欲しいと言って逝ったそうです。」「心の傷は消えません。」

ひやま隆(2015.07.13)|写真日記, 戦争体験者の声

2015年7月10日(金) 先の戦争の話をうかがう

掲載日:2015.07.10

 ひやま隆です。本日は、中野区南台にお住まいの戦争体験者のSさん(仮称)に、先の戦争に関するお話を伺いました。現在、84歳のNさんは、旧制高等女学校在学中に戦争を体験しました。
 昭和19年から本所区(現墨田区)亀戸にあった「三菱製鋼」に学徒勤労動員として勤務をはじめ、次第に激しさを増す空襲の中でも「旋盤工・ボール盤工」として兵器の部品作りに精を出しました。学業を投げ打って、日本の勝利を信じて働いていたSさんでしたが、昭和20年3月10日の東京大空襲後の焦土と化した電車沿線の景色を見て次第にこの戦争に対する疑問を抱くようになります。
 「大空襲の後半月ほどして、一部工場が焼け残った「三菱製鋼」へ行きました。行く途中の道路の亀戸駅にも壁には真っ黒に人の油が焼け付き、また、道端には馬や犬の黒こげの死体など、周りを見ると、見るに耐えないと言って、友達と真っ直ぐ前を向いて歩きました。」
 「軍国少女であった私たちでも、省線(現在のJR※筆者中)の往復で見る焼野原の続く光景を見て「これで日本は本当に勝利するのか」と口には出せず(言葉にすれば国賊です)考えたものでした。」(Sさんの手記「続 表参道が燃えた日‐山の手大空襲の体験記‐」より)
 昭和20年8月15日、Sさんは隣家のラジオで玉音放送を聴きました。音声がはっきり聞き取れず意味がよく分からなかったと言いますが、「ポツダム宣言受諾せり」という言葉だけは、今でもSさんの耳にはっきり残っています。
 「私の空襲体験などは沖縄戦、原爆に比べたら、体験を語るほどの事ではありません。この戦争には何千倍の辛酸を味わった人が多くいます。戦争は絶対にあってはなりません。全世界の平和を祈るばかりです。」(Sさんの手記より)

ひやま隆(2015.07.10)|写真日記, 戦争体験者の声

2015年2月4日(水) 新井薬師前駅で朝の街頭演説

掲載日:2015.02.04

 ひやま隆です。
 今朝は、新井薬師前駅北口にて朝の街頭演説をさせて頂きました。
 本日は、現在、中野区上高田にお住まいの戦争体験者のNさん(仮称)に、先の戦争に関するお話を伺いました。現在、94歳のNさんは、昭和15年に召集を受け、先の戦争に出征しました。当時の関東軍に編成されたNさんの主たる任務は、旧満州国におけるソ連との国境線の警備活動でした。昭和20年(1945年)8月、日本が終戦を迎えた直後、突如としてソ連軍が侵攻してきます。Nさんは、捕虜となりシベリアへと送られました。
 「ソ連兵に“ダモイ(帰国)・トウキョウ”と言われ船に乗せられたら、行き先が日本ではなくシベリアでした。とにかく寒さと飢えに耐える生活で、食事は黒いパンとスープのようなもの。ただ、現地の住人もずいぶんと貧しい生活をしていたような記憶があります。」
 終戦から2年後の昭和22年、Nさんは日本に復員しました。戦後は保険会社に勤務し、会社員生活を送られました。
 「今は、軍人恩給も受けていますが、多くの仲間を失いましたからね。複雑な心境です。」「昨日も、国会中継を観ていましたが、何かこう、日本は大丈夫かなというか、そういう感じはありますね。戦争というものを知っているだけにね。」
  戦争体験者の高齢化にともない、日本から戦争の記憶が急速に失われつつありますが、今の時代を生きる者の責任として、私はこれからも戦争を体験された方々の貴重な声を記録し、伝えていきたいと考えます。ご自身の体験談、ご親族・お知り合いの方の体験談など、皆様のお話を、是非、お聞かせ下さい。

ひやま隆(2015.02.04)|写真日記, 戦争体験者の声

2014年10月21日(火) 先の戦争に関するお手紙を頂きました

掲載日:2014.10.21

 ひやま隆です。
 本日、中野区在住の方から、先の戦争に関するお手紙を頂戴いたしました。
 私がお配りしているチラシの中の「先の戦争の話を聞かせて下さい」という記事を見て、お書き下さったとのことです。
 一部分だけではありますが、ご紹介させて頂きたいと思います。
 「我が家では兄が戦争に行きました。私達女性は千人針、日章旗に寄せ書きをしたものを持たせ、親戚一同でお祝いの宴を囲み軍服を着た兄を送り出しました。」「兄は栄養失調で帰ってきました。職場に復職しましたが結核にかかり、3年の休職ののち解雇されました。私は、一日、兄の前途を悲観して泣きつづけました。兄も何年も荒れた生活をしました。優しい兄でいつも本を買ってくれたり、映画の券を姉と私の分をくれました。その後、兄は遅く結婚し、子供も生まれましたが、幼い子供を3人残して53歳で亡くなりました。遅れをとりもどすべく働きに働き結核の再発で亡くなりました。これも戦争の犠牲。あの戦争がなかったらと思います。」「かたりべとして、話したい気持ちは昔からありました。どうか、後の子供達のために平和な世の中にするために。どうか伝えて下さる様、せつにお願いします。乱筆、乱文ですが、気持ちを受けとめて下さい。」
 お手紙を下さった方、本当にありがとうございました。匿名なのでお返事をお返し出来ないのが、とても残念です。もし、ご本人様、あるいはご家族の方がこの投稿をご覧頂いておりましたら、ひやま隆事務所(03-6915-3459)までご連絡頂ければ嬉しいです。お手紙はしっかりと拝読いたしました。私、ひやま隆は、今の時代を生きる者の責任として、必ず次世代につなげていきます。
 

ひやま隆(2014.10.21)|写真日記, 戦争体験者の声

2014年9月27日(土) 先の戦争を考える会を開催

掲載日:2014.09.27

 ひやま隆です。
 本日、中野区内で先の戦争について考える会を開催しました。
 参加された方の中には、実際に戦争を体験された方もいらっしゃり、戦争という凄惨な現場を生々しくお話し頂きました。
 かつて戦場で戦った経験のある日本人は、当時の少年兵でも85歳を超えています。戦争体験者の高齢化にともない、日本から戦争の記憶が急速に失われつつあります。しかし、決して過去の教訓を風化させないよう、これからもこうした会を継続して開催してまいります。
 ※写真は、連続テレビ小説でも話題となった柳原白蓮さんの直筆の短冊と色紙を拝見しているところです
 
 

ひやま隆(2014.09.27)|写真日記, 戦争体験者の声
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