戦争体験者の声

2015年7月10日(金) 先の戦争の話をうかがう

2015年07月10日

 ひやま隆です。本日は、中野区南台にお住まいの戦争体験者のSさん(仮称)に、先の戦争に関するお話を伺いました。現在、84歳のNさんは、旧制高等女学校在学中に戦争を体験しました。
 昭和19年から本所区(現墨田区)亀戸にあった「三菱製鋼」に学徒勤労動員として勤務をはじめ、次第に激しさを増す空襲の中でも「旋盤工・ボール盤工」として兵器の部品作りに精を出しました。学業を投げ打って、日本の勝利を信じて働いていたSさんでしたが、昭和20年3月10日の東京大空襲後の焦土と化した電車沿線の景色を見て次第にこの戦争に対する疑問を抱くようになります。
 「大空襲の後半月ほどして、一部工場が焼け残った「三菱製鋼」へ行きました。行く途中の道路の亀戸駅にも壁には真っ黒に人の油が焼け付き、また、道端には馬や犬の黒こげの死体など、周りを見ると、見るに耐えないと言って、友達と真っ直ぐ前を向いて歩きました。」
 「軍国少女であった私たちでも、省線(現在のJR※筆者中)の往復で見る焼野原の続く光景を見て「これで日本は本当に勝利するのか」と口には出せず(言葉にすれば国賊です)考えたものでした。」(Sさんの手記「続 表参道が燃えた日‐山の手大空襲の体験記‐」より)
 昭和20年8月15日、Sさんは隣家のラジオで玉音放送を聴きました。音声がはっきり聞き取れず意味がよく分からなかったと言いますが、「ポツダム宣言受諾せり」という言葉だけは、今でもSさんの耳にはっきり残っています。
 「私の空襲体験などは沖縄戦、原爆に比べたら、体験を語るほどの事ではありません。この戦争には何千倍の辛酸を味わった人が多くいます。戦争は絶対にあってはなりません。全世界の平和を祈るばかりです。」(Sさんの手記より)