今日のひやま隆

平成28年第2回定例会 ひやま隆一般質問全文

2016年06月07日

[1.平和事業・戦没者慰霊事業について]

平成28年第2回定例会に当たりまして、民進党議員団の立場から一般質問をさせていただきます。質問は、通告のとおりです。(1.平和事業・戦没者慰霊事業について、2.区政への区民参加の推進について、3.危機管理についてです)その他はございません。質問に先立ち、先の熊本県を震源とする地震により被災された皆様方に心からお見舞いを申し上げますとともに、尊い命を落とされた方々のご冥福をお祈りいたします。一日も早い復旧・復興を心からお祈りを申し上げまして質問に移ります。

はじめに「平和事業・戦没者慰霊事業について」お尋ねします。今年、我が国は戦後71年を迎えます。戦争体験者の高齢化にともない、日本から戦争の記憶が急速に失われつつありますが、「平和の尊さ」「戦争の悲惨さ」そうした過去の教訓を次世代に引き継ぐことは、今の時代を生きる私たちの大きな責任であります。

中野区では1990年4月に「中野区における平和行政の基本に関する条例」を施行し、平和行政を区の政策目標として法的に位置付け、これまでさまざまな平和事業を展開してきました。今年の5月には平和企画展示「中野の空襲」が開催されました。昭和20年5月の「山の手大空襲」では、中野の大半の地域が空襲を受け、焼け野原になりました。この空襲により、判明しているだけで400人以上の方が亡くなっています。地域をまわっておりますと、当日の様子を今なお鮮明にご記憶され、その体験を生々しくお話してくださる方もいらっしゃいますが、こうした惨劇を再び招かないよう、平和への願いを込めて、平和事業を実施していくことは大変、意義のあることだと思います。

そこでお尋ねします。
中野区のこれまでの平和事業の取り組みについて、区はその意義と成果をどのようにとらえておりますでしょうか。また、今後、平和の森公園再整備計画の中での平和資料展示室のあり方等も含め、新規で実施する、あるいは拡充していく予定の平和事業はありますでしょうか。区のご見解をお示し下さい。

今回、私はこの質問をさせて頂くにあたり関連する資料のみならず、実際に戦争を体験された戦争体験者のお話も伺いました。百人百様の戦争体験がある中、「空襲」や「銃後の生活体験」など貴重な体験を伺うことが出来ましたが、こと戦場での従軍体験となると体験者が既に亡くなられている、もしくはお体の具合が悪く話せる状況にないなどの理由でお話を伺える方が極端に少なくなってしまうという現実がありました。かつて戦場で戦った経験のある日本人は、当時の少年兵でも85歳を超えています。改めて、戦争体験者の高齢化に伴う、戦争の教訓の風化が危惧される訳でありますが、私がもう一つ大きな問題意識として持っておりますのが、先の戦争において中野区から出征された区民の記録が極めて断片的な限られた記録しか残っていないということであります。

昭和59年3月に中野区が発行した「中野区民生活史 第2巻 第9章」には中野区に本籍があった戦死・戦病死者等のうち、昭和19年、20年に死亡したことが東京都の原簿(げんぼ)によって確認できる人の人数がまとめられています。それによると中野区本籍者の戦死・戦病死者数は、昭和19年441名、昭和20年808名と記録されており、昭和19年、20年の2年間だけでも山の手大空襲を超える多くの方が犠牲となられたことが分かります。さらに、中野区に住んでいても、本籍が他地域にあった戦没者はこの数字に含まれておらず、実際の中野区民の戦没者はこれよりはかなり多かったと考えなければならないと記述されています。

そこでお尋ねします。
先に取り上げた「中野区民生活史」によると、中野区内からの出征者数、犠牲者数、帰還者数は不明であるとされています。また、関係省庁である厚生労働省に本件について問い合わせたところ、厚労省では旧陸海軍から引き継いだ部隊等の資料の中にはこれらの記録は記載されていないとの回答でしたが、現在、中野区としてはこれらの人数について把握されておりますでしょうか。また、中野区としてこれまで独自に調査等を実施したことはありますでしょうか。

この件に関して、私は中野区としても、その人数を把握してその記録を次世代にしっかりと引き継いでいく責任があると思いますが、いかがでしょうか。区のご見解をお示し下さい。

もう一つのお伺いしたいのが、戦没者のうち、いまだ御遺骨が祖国に戻っていない未還遺骨の問題であります。先の戦争の戦没者は約310万人、厚生労働省によると、このうち海外で戦死された方は240万人にのぼりますが、半数近くの御遺骨は現地で眠ったまま、今なお祖国に帰還できずにいます。

政府による遺骨収集帰還は、わが国が主権を回復した昭和27年度から始まりました。対象地域は海外に加え、当時、アメリカの占領下にあった沖縄と硫黄島(いおうとう)です。昭和27年度から南方地域において始まり、その後、平成3年度からは旧ソ連地域における抑留中死亡者について、更に平成6年度からはモンゴルにおける抑留中死亡者についても御遺骨の収容が可能となりました。厚生労働省によると、この結果、これまでに約34万柱(ばしら)の御遺骨を収容し、陸海軍部隊や一般邦人の引揚者(ひきあげしゃ)が持ち帰ったものを含めると、海外戦没者約240万人のうちの約半数である約127万柱の御遺骨を収容していますが、およそ113万人の御遺骨が未還のままです。

そこでお尋ねします。
中野区から出征された兵士のうち未還遺骨数は現在、中野区として把握しておりますでしょうか。

厚生労働省によると東京都をはじめとする地方自治体に対しては、毎年度、全国会議の場で、遺族・団体・協力者等から埋葬地などの戦没者遺骨に関する情報が寄せられたときには速やかに、厚生労働省まで連絡して頂くよう依頼しているとのことですが、これまで中野区ではこうした情報は何件寄せられ、どのような内容であったのかお示しを下さい。

戦後70年を経てもいまだ御遺骨が戻らず、祖国から遠く離れた場所で放置されたままになっておられるご遺族のご心痛はいかばかりかとお察しいたします。一刻も早い祖国への帰還を願って止みませんが、これに対する区のご見解をお示し下さい。

戦没者の御遺骨を早期に収容し、ご遺族に引き渡すことは国家としての重要な責務であるにも関わらず、これまでは遺骨収集事業を国に義務づける根拠法がありませんでした。しかし、今年の3月に戦没者の遺骨収集を進めるための議員立法「戦没者遺骨収集推進法」が3月24日の衆議院本会議で成立しました。遺骨収集を「国の責務」と初めて明記し、政府に遺骨収集の基本計画の作成を義務付けるもので、戦後補償史においても画期的な内容のものであります。集中実施期間は9年間で戦後80年の節目を迎える9年後までに集中的に取り組み、御遺骨の収集を増やすのがこの法律の目的です。ご高齢になられたご遺族の側から見れば、時間はあまりありませんが、成果を大いに期待したと思います。

そこでお尋ねします。
今回の「戦没者遺骨収集推進法」成立を受け、中野区にお住まいで御遺骨がいまだに戻らないご遺族に対しては、お一人でも多くの方に御遺骨を引き渡すよう、中野区としても国に対して強く要望するべきであると考えますが、区のご見解をお示し下さい。

先の戦争において中野から何人の方が出征され、何人の方が犠牲となり、何人の方が帰還できたのか。先に述べたとおり、厚生労働省によると旧陸海軍から引き継いだ資料にはこれらの記録は記載されていないとのことでありました。記録もなく、祖国から遠く離れた異国の地で、それぞれの想いを抱えながら犠牲となられた多くの方々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。中野から出征された兵士がどのような運命を辿ったのか――。今回の質疑にあたり、これについてもお調べいたしました。昭和9年の陸軍士官学校「軍制学教程(きょうてい)」には「陸軍管区及歩兵隊兵員徴収区指定表」が掲載されております。これによると現在の中野区にあたる地区から徴兵された兵士は、当時、帝国陸軍第1師団の麻布連隊区が管轄していた「歩兵第1連隊」ほか麻布を編成地とする部隊に入隊していたものと推察されます。

このうち「歩兵第1連隊」について、その略歴を簡潔にご説明させて頂きますと、日米開戦後、第1連隊は満州にてソ連への備えを任じていましたが、戦局の悪化により昭和19年、南方転進を命ぜられ、10月20日、上海からフィリピンのレイテ島に決戦部隊として派遣されました。奇しくもこの日は「アイ・シャル・リターン」を叫んでフィリピンを脱出したマッカーサー将軍が、米軍部隊を率いてレイテ島に再上陸した日でもありました。11月1日、連隊はレイテ島に上陸し、圧倒的な戦力を持つ米軍を前に、それでも一進一退の攻防を繰り返し、少なからず米軍の進撃を食い止めました。この時の連隊の防衛ぶりを米兵たちは「山下ライン」と呼んで賞賛したと伝えられています。しかし、この間、前線への食糧の供給は途絶え、兵力の消耗も烈しく、兵員は上陸時の2500名から350名にまで減っていました。そして、米軍との激戦の末、昭和20年1月レイテ島から脱出。セブ島に渡り、米軍に対する遊撃戦を行いましたが、ついに終戦を迎えました。このとき、連隊の生存者はわずか39名でした。

米軍との降伏式に先立って連隊の軍旗が焼却されましたが、焼かれたのは旗竿(はたざお)のみでありました。軍旗奉焼の前日、将校たちは何とか軍旗を祖国に持ち帰ろうとし、軍旗を寸断し、お守り袋に偽装することで米軍に気付かれず持ち帰ることが出来ました。現在、この軍旗は、陸上自衛隊練馬駐屯地の第1師団資料室に保管されています。

区長にお尋ねいたしますが。
先の戦争において中野区から出征された区民の記録は、これまで区としてどのような形で語り継いでこられたのでしょうか。区のこれまでの実績をお示し下さい。

中野区内でも多くの犠牲者を出した山の手大空襲の体験談や、銃後の生活体験を語り継ぐことはとても重要なことであります。しかし、中野区から出征され、実際の戦場で戦った兵士が何を体験され、どのような運命を辿ったのか。そうした記録を次世代に語り継ぐことも、今を生きる私たちの大きな責任であり、犠牲となられた方への誠意であると考えますが、これに対する、区長のご見解をお示し下さい。お尋ねしてこの項の質問を終えます。

[2.区政への区民参加の推進について]

次に区政への区民参加の推進について伺います。今後の中野区議会においては「新区役所・新体育館整備」「区内駅周辺まちづくり」など今後50年100年の中野のあり方を左右する大変、重要なテーマが議論されることが予想され、区政への区民参加はますます重要になってまいります。

中野区自治基本条例、第3章 第14条には「行政運営への区民の参加の手続きは、行政活動の内容、性質及び重要性に応じ、個別意見の提出、意見交換会、パブリック・コメント手続き等の執行機関の定める適切な形態及び方法によるものとする。」と定められ、とりわけ意見交換会及びパブリック・コメント手続きが、区民にとって主要な行政運営への区民参加の機会であると位置付けられています。

総務省が平成27年1月に実施した調査によると、パブリック・コメント制度を制定している地方公共団体は、日本全体で56パーセント、検討中が7.3パーセント、予定なしが36.7パーセントという結果でした。日本全体で見るとパブリック・コメント制度の導入が十分とは言えない中、それぞれの分野ごとの計画責任者がパブリック・コメントを実施している区の姿勢は評価いたしますが、この制度をさらに前に進めていくためにいくつかお尋ねいたします。

平成28年度予算特別委員会での要求資料「パブリック・コメントに出された意見の反映状況」によれば、現年度までの4年間でパブリック・コメントに出された意見により修正をされた箇所は、ほぼ皆無に等しい状況であることが分かります。これはパブリック・コメント手続きの目的である「政策立案の段階で区民から広く意見を募集し、提出された意見を反映して最終決定を行うための手段」としての役割を十分に果たしていると言えるのでしょうか。これに対する、区のご見解をお示し下さい。

パブリック・コメント制度に関して、横須賀市ではその実効性を確保するために、制度の運用状況は行政手続審議会に報告されるしくみを整備し、第三者の視点からも実施状況を評価できるようにしていますが、中野区においてもこうした制度の形骸化を防止するための取り組みを実施していく必要性があると考えますが、区のご見解をお示し下さい。

この項の最後の質問に「区民と区長の対話集会」についてお尋ねいたします。区民と区長の対話集会は、区民と区長が直接、区政や地域の課題について意見交換を行いながら、区民の区政への理解を深めることを目的として、平成14年7月から概ね月に2回程度実施していると伺っております。直近の鍋横区民活動センターで実施された集会の参加者は7名と聞いております。参加人数の少なさについてはこれまでも度々、議会で指摘がありましたが、こうした取り組みを継続的に実施していくことには意義があると思いますし、区長におかれましては、今後ともめげずに実施して頂きたいと願っています。そこで、区と区民との間の双方向のコミュニケーションをさらに活発化するためにいくつかお尋ねいたします。

首長と市民との対話集会に関する他の自治体の事例として、三重県松阪市の事例があります。山中光茂前市長が実施した対話集会は、これまでの「行政が方向性を決定し、議会に説明した後に市民への説明会を開く」という流れではなく、まず市民に対する意見聴取会やシンポジウムを開催し、その声に基づいて行政が決断するというプロセスで政策形成をした事例として注目を集めました。庁舎建て替えに関する意見聴取会、コミュニティ交通・公共バスの在り方に関するシンポジウム等、1年間に20回近い市民意見聴取会を開催したとされており、特に松阪駅西再開発計画については、積み重ね型の意見聴取会を1回4時間で3回、計12時間行ったとされています。この「シンポジウム・システム」とも呼ばれる手法は、重要政策の決定の選択に市民の声が直接反映できるやり方として中野区としても実施を検討する価値があると思いますが、区のご見解をお示し下さい。

区民と区長の対話集会に関して、中野区は対話を通じ、区民の意思や地域の現状を把握し、区政運営への反映に努めるとし、区のホームページにおいても「区民と区長の対話集会に出された意見の反映状況」について公表している姿勢は評価できますが、2010年10月8日を最後に、その後、更新がなされておりませんが、これはその後、区民と区長の対話集会に出された意見は区政運営に反映されていないとう理解でよろしいのでしょうか。区のご見解をお示し下さい。お尋ねしてこの項の質問を終えます。

[3.危機管理について]

次に、中野区の危機管理についてお伺いします。平成28年1月からスタートしたマイナンバー制度にともない、情報セキュリティのさらなる強化が求められています。平成27年に日本経済新聞社が全国770自治体の首長を対象に実施した調査では、マイナンバーのセキュリティ対策が「万全」と回答した自治体は2割にとどまり、「対策に不安」と「やや不安」と回答した自治体は7割に近く、各自治体の準備不足の現実が浮き彫りとなりました。一方で、日本年金機構や長野県上田市など公的機関へのサイバー攻撃は相次いで発生しており、先の日本経済新聞社の調査では770の自治体のうち149の自治体がこれまでにサイバー攻撃を受けたことがあると回答しています。不審メールによるサイバー攻撃はその手口がますます巧妙化しており、中野区においても、こうした事態がいつ発生してもおかしくない状況にあります。

そこでお尋ねします。
サイバーテロに関して、平成28年度に改定がなされた中野区国民保護計画では「サイバーテロは、都民生活や都市活動に大きな影響を与えるとともに、緊急対処事態に発展するおそれのあることから、関係機関等と連携しながら、その動向に注視し適切に対応していく」との記載が新たに加わりましたが、現在あるいは今後、情報セキュリティ強化に向けたどのような事業を実施していく予定なのか区のご見解をお示し下さい。

お尋ねして、私の全ての質問を終わります。御清聴ありがとうございました。